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英語偏差値30からカナダ東海岸St.Thomas Universityに留学。卒業後2009年4月、某財閥系総合商社へ入社。
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うーん、長い思考停止期間を終え(意図的にそうしていたのかも)、やっと日記が書ける程に頭が回ってきました。 

 

色々な所で様々な変化の波がどっと押し寄せて来て、その全てに対処できる程のバランス感覚を持ち合わせていなかった自分。最近痛感しているのだけど、自分はつくづく向こう見ずな性格で、基本的に見つめている目標に真っ直ぐにしか進めない。脇目も振らないし、それによって沢山の大切な事を見落としていた。 

 

心に余裕が無かった、と言えばそうなのだけど、やっぱりバランスの取れない自分が悪い。色々な物事に対するスタンスを思い返してずっと考えていた。そしてやっと少しだけ考えが纏まってきた。 

 

本当に色んな人に助けられている。みんな本当にありがとう。自分ももっと人を助けられるようにならなきゃね。 






 

 

さて、総選挙。僕もぎりぎり5分前に言ってきました。驚くべきというか当然というか、「結果」が出た。ただ、それについて今どうこう分析しても仕方がない。経済危機とメディア主導選挙が重なる時何が起こるのかを予測するのは難しい事ではなかったし、大切なのは何故この結果になったのか、ではないと思う。大切なのはこの結果がどんな変化をもたらし、どんな未来を創っていくのか。そしてそれは僕達皆が身をもって体験していく事だし、この事についてはいずれ書いていけば良いと思う。 

 

ただ今回友人と選挙について話す事が多かったので、自分が今回の選挙で特に意識している一つの事について少しだけ考えてみた。 

 


          
 

 

僕が今回の選挙でずっと注意を払って来たのは、世界(海外)のメディアや雑誌の反応。 

 

60年体制の崩壊」なんて言われ方をしても、日本の政治システムそのものに絶望している日本人からしてみたら正直ピンと来ない。政権交代があっても、実際には何も変わらないかもしれないし、どうせ政治家なんて皆似たようなもの、という諦めの感覚を持つ日本人は多いと思う。 

 

マニフェストだって実際に実現されたためしが無いし、少子高齢化、格差問題、自殺率、経済危機・・・山積みの問題が一挙に解決に向かうとは想像し難い。そこで国民の意思が選挙結果にどのように表れようが、明確な変化に繋がるとは思えない。 

 

一方で、海外の今回の選挙への関心は、決して低くないという印象を受けた。日本で政権交代が全く起こっていなかったのは異常な現象だと海外では認識されているし、そこに変化の兆しが見えると、政変の可能性は大きく報じられていた。 

 

このグローバル社会において経済的・政治的に外国の介入が増す一方の日本。その国で歴史的政変の可能性がある選挙が海外でどのようなイメージと共に報道されているのかは、選挙後の日本が国際社会でどう受け止められるのかを考えるのに重要な要素だと考えていた。 

 

 

だから、自分は、政党の国内政策や国民からのイメージよりもむしろ海外からの今回の選挙のイメージに注目していた。 

 

海外メディアからしても日本の政変自体はもちろん注目に値する事で、新聞等のメディアはそれを全面に押し出して報道しているのは当然なのだけど、これらが日本の選挙のイメージを示しているとは言い難い。そこで自分が更に気になっていたのは、Economist等の経済誌や学術誌。これらはその国の抱える問題を冷静に分析して、各政党の政策がそれを解決出来るのかに焦点を当てていた。特に世界中のビジネスマンや政治家が読んでいるEconomistの意見は無視できるものではなくて、海外が日本に持っている問題意識について考えるのにとても参考になる。 

 

海外メディアや雑誌の反応をざっと見てみて思ったのが、日本の政治家と世界のロジックのズレ。他国から見たら日本の抱える問題の解決策は余りにも明らかなのに、何故か日本の政治家だけがそれを認識してない。 

 

例えば、民主党の強調する子供手当は海外ではそもそも少子化対策として認識されていないし(数年前に少子化と無縁のカナダ保守党が同政策を取った時、子供手当は全く別の認識をされていた)、そもそも持続可能性の無い政策であれば、少子化等の長期的問題の解決にはならない。根本的な解決には日本の非効率な経済活動を効率化し自分と家族のための時間を作ってあげること。そのためには規制緩和や外資の導入が必要不可欠だし、これらの変化を歪み無く日本社会に組み込むためには、長い時間が必要だろう。 

 

日本の抱える問題は、マニフェストや表面的な政策で解決出来るものではなく、国民自体の意識改革も含めたシステムそのものの変化が必要なのだという事は世界の皆が認識している。 

 

そして、日本の抱える問題の多くが根本的かつ長期的なアプローチが必要だという事と、長期政権が成立しづらい日本の現状を踏まえると、日本の問題を解決する方法には一種のショックセラピーしかないのではないか。今回の政変がそのショックの兆しとなるのではないかというわずかな期待と、やはり日本は変わらないという半ば諦めの空気を海外メディアや雑誌を通して感じた。 

 

 

また、今回自分が強く感じたのは、海外の日本に対する理解や問題提議が、自分が大学にいた頃と比べて格段に鋭くなっていること。今回の経済危機の中の日本や選挙など、海外のメディアは日本のメディアと比べてずっと的確な分析をしていたと思う。世界の日本に対する理解が格段に深まっているのと同時に、経済大国日本独自のロジックが、いよいよ世界で全く通用しなくなってきたことを痛い程示しているような気がした。 

 

 

そんな事を考えながら、海外メディア等の報道や記事を通して自分は今回の選挙を見ていた。注目の根底には、変化出来ない日本をドライに見つめる海外の視点と、逃げ場を失い追いつめられた日本の姿が見え隠れする。 

 

とにかく今は、スタンフォードPhDを持つ新しい日本のリーダーが、世界からのわずかな期待にどのように応え、日本の変化を示す事が出来るのか、マニフェストや論文の良し悪しは別として、見守ってみたい。

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前回の続きです。
今回は田母神さんは息を潜め、もっぱら政治科学と歴史学の話になります。


さて、田母神氏の歴史観に関する主張を読んでみて、歴史観を変える・提唱することの難しさをつくづく感じた先日。歴史的事象なんて星の数ほどあって、それらを差別的に集めてきて自分の擁護する歴史観を説明するための証拠とすればいい。しかもその記録されてきた歴史自体も、編纂者の意向が反映されていて歴史の「真実」を伝えている可能性は限りなく低い。


だから俺の歴史学の教授は、

''We never know about history, but history is all about understanding it.''

「完全に歴史を知ることは出来ないけれど、それを理解する事こそが歴史学だ」

と言ったんだね。歴史について確固たる資料や事実をもって「知る」ことは出来ないけれど(確固たる歴史観は無い)、その時代背景や価値観などを調べることによって、「理解」を高めることはできる、と。


だけれどこの考え方、俺のお世話になった政治科学部の教授達のアプローチと真っ向から対立する。



Political Science、政治科学、ポリサイ。

俺の大学だけではなく、欧米では至極ポピュラーなこの学問の名前、考えてみるとどこかおかしい。なぜ、「政治学(Politics)」ではなく、「政治科学(Political Science)」なのか。ここに政治学者達の自負心と信条、そして歴史学者達との軋轢の根源がある。

まず言ってしまおう。「(政治)学」、と「(政治)科学」、の違いは、前者は、事実を学ぶことであって、後者は、物事(の因果関係)を仮定し、検証し、一般化(Theorize, Generalize)し、更には物事の予測を可能にする、という点。

政治の仕組みや働きなどを勉強して知識にするのは政治学、そして、政治科学は、その山ほどある政治的事象を検証、一般化し、その上に政治理論を作り上げる。

例えば、「AとBという政治的現象が観測されたら、Cが起こる」という感じ。具体的な例を挙げると、経済混乱+沢山の労働階級+民族のバラエティ+民主主義(!!!)=ナチズムの台等の懸念、のようなもの。

更に政治科学の、科学的・数字的側面を強調していくと、デベルジェ(Duverger)のMedian Voter Theoryやライカー&オードシュック(Riker&Ordeshook)の投票行動方程式なんてのがある。


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※参考までに

投票行動方程式
R= P x B - C + D

R=選挙に行く可能性
P=1人の投票が結果を変える可能性(要は接戦かどうかって事)
B=投票する政党、又は立候補者を変える事による結果の変化
(それぞれの政党、立候補者の間でどれだけの違いがあるか)
C=投票に行く事によるコスト(時間、仕事、いろいろ)
D=選挙に行く事で得られる満足感。

以前にも紹介した覚えがありますが。
面白いでしょ?あ、そうでもない?…w
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水素に火を点けたら水になりますよ(H2+O=H2O)という確固たる因果関係を見つけだす化学のように、政治科学も、事象と事象の確固たる因果関係を見つけ出し、理論化しようとする。



ちょっと待った。ここでウチの歴史学者が口を出す。「過去に起こった事象なんてそれぞれの時代背景が余りにも特有過ぎて、現代に当てはめることなんて不可能だ。」「政治科学者こそ、自分の論理に都合のいい事象だけを掻き集めてきて論証しているだけじゃないか。」と言う。

この歴史学者は、歴史的事象の特有性について細心の注意を払い、そこから因果関係を導き出すなんて不可能だと言う。



しかしここで政治科学者も黙ってはいない。彼らには、過去の失敗や政治システムの研究によって、国や世界の危機を未然に防いだり、より良い政治システム作りに貢献しようという自負がある。悪い結果を引き起こす事象を特定できれば失敗を防げる。そしていい結果をもたらす事象を発見できれば将来より良いシステムが作れる。

この自負を捨ててしまえば、プラトンやアリストテレスの時代から続いてきた政治科学者の役目が終わってしまうので、それは絶対に認めない。



こんな中で俺がいつも思っていたのは、結局歴史学者も政治化学者も似たような問題を抱えてるんじゃないか、ってこと。歴史学と政治科学は本来「哲学」という学問の中に共存していたはずだし、それを無理に引き離そうとすれば、お互いが独立して存在するために様々なアプローチを考え出すだろう。

歴史学者だって歴史における普遍的法則を見つけ出そうとするだろうし(ダーウィンの進化論とかね)、政治科学者が政治的事象をより深く理解しようとするアプローチだってある(もっとも、そうすればただのの政治学になってしまうのだけど)。

歴史学者が歴史を「理解」することに重きを置けば、政治科学者は政治の普遍的法則を「知ろう」とする。結局どちらも同じようなジレンマを抱えて存在しているんじゃないか。

ただ、歴史学者が歴史科学者、と名乗らないところを見ると、歴史学者は科学的アプローチを放棄したかのようにも見える。ひょっとしてそれは、「歴史」そのものを尊重する姿勢の現れなのかもしれない。



一方で政治科学者にもおかしなところがある。Political Scientistであるために、政治的法則を発見したいがために、この現実世界を捻じ曲げることが多々ある。膨大な社会現象全てを踏まえて理論を立てるのは難しいので、経済学のように次々に前提を作って、その上に理論を立てる(例えば、「国民はそれぞれ個人の利益を最大化する為に行動する、と仮定する」「国民は、自分で仕組みを作り出すのではなく、作り出された仕組みに影響される、と仮定する」など)。

理論作りに躍起になっている政治科学者は、彼ら本来の目的、「よりよい社会、政治システムを作る」という目標から遠ざかっているようにも思える。「どんな社会が良い社会か」「どんな政治システムが良いものか」という根本的質問を哲学に丸投げして、政治科学本来の存在意義を見失っているのでは?



歴史学と政治科学、お互いの存在を維持するための軋轢を維持するのでは無く、その中でお互いが見落としている点を補完しあってこそ、よい結果が生まれるのではないのかな(大きくは無いが、この動きも無いことはない)。

もっとも、もしもそんな事が本格的に起こってしまったら、社会科学上の大変革になってしまうんだけど。



キリが無い。もう止めようw
田母神さんの本から思いがけず、懐かしい大学生活を思い出した。



Picture: Raphael
 
 
最近は更新が滞ってしまって申し訳ないです。
去年牧場から期間して以来、友達の大切さを再確認しましてミクシィを始めまして。
その2つの定期的な更新維持はなかなか難しく、こちらのブログが止まり気味になってしまいました。
ミクシィの内容と重なることも多いのですが、こちらにもUPしていきます。


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田母神前航空幕僚長の『自らの身は顧みず』を、
今更ながらざっと読んでみた。

この本は今回のエントリーの主題ではないので詳しい内容は割愛するけど(参考リンク)、要するに彼が言いたいのは、「日本は歴史的な過ちなど犯していない、すなわち侵略国家ではないのだから、日本の誇りと主体性を取り戻しなさいよ」ということ。

①南京虐殺は実際には行われていない
②真珠湾攻撃はコミンテルンの策略だった
③日本兵は常に国際法を遵守していた etc.

にも関わらず日本がこれほどの自虐史観を持つのは、東京裁判とそれ以降の占領で列強諸国がそれを植えつけたから、だと。


彼の主張も的を射ているところは多々あるし、国体への問題提議、という意味では有益な本だと思うけど、俺が何より感じたのは、「歴史観を変える、または新しい歴史観を説得力を持って提示するのって本当に難しいな」ということ。



      
                                               Pieter Prueghel




俺の専攻は歴史学ではないので、詳しいパラダイムシフトなどを踏まえて説明することは出来ないのだけど、歴史なんて言ってみれば見方によってどうとでもなる。

南京虐殺について、田母神さんが上記のような主張をする一方、「南京虐殺では30万人殺された」とか、「実は10万人だった」(中道派、なんて言い方をしたりする)とか、色んな意見がある。それぞれの主張をサポートするための資料を片っ端から選んで集めてくれば、どんな主張でも作り上げることができる。

違う「歴史」を見てみよう。9.11、イラク戦争時(今も)のイスラム教に対するイメージ・歴史観は、「排他的」「原理主義的」「ジハードの概念が危険」というものだった。

特にジハードを例に取ってみる。「ジハードはイスラム教徒に他宗教を弾圧する正当性を与える」、「ジハードは非人道的」、という歴史観を作り出したければ、

①リコンキスタ時代のアンダルシアでは、ジハードは戦争を仕掛けることを正当化するために解釈された
②十字軍との衝突の時代では、ジハードは兵隊確保、捕虜の処分のために、奴隷制度、死刑制度、税制度を整備する際に多様に解釈された
③近代では、パキスタンの独立や領土拡大のための戦争を正当化するためにジハードは解釈された
④ビン・ラディンは、アメリカを十字軍に見立ててそれの迎撃を正当化するためにジハードを解釈した etcetcetc....

と、ジハードが戦争を正当化した例をイスラム1500年の歴史から片っ端から集めればいい。


逆に、「イスラムは平和な宗教なんだ」「他宗教との共存も認めている」と主張したければ、

①ムハンマドはメディーナでの布教に際して、現地のユダヤ人との共生を計ったが拒否された
②アバシッド時代では、イスラム政府の高官にユダヤ人を積極的に登用していた
③コーランには、'people of the book'という、他宗教を認める項目がある etcetcetc...

と、イスラム教が他宗教と共存していた、しようとしていた例を片っ端から集めればいい。

なので、一つの歴史観にまとまることなんてありえないし、ある歴史観が他の歴史観よりも正しい、なんて主張することも不可能に近い。

より多くの資料と説得力のある情報源を携えた主張が一番正しいのかもしれないけど、そのためには、その資料がどれだけ信用できるか、をまず議論しなければならない。そこで明確な基準を示すことも不可能。

更には、そんな昔から現代に残っている歴史書が公正にその時代を記述してあるのか、といえばそうではない。日本書紀が別名藤原史観と呼ばれるように、ローマ帝国時代の文献であればそれを正当化するような記述に傾倒しているだろう。誰でも好きなように歴史を記録できる現代ならまだしも、限られた人しか文字を使えなかった昔であれば尚更のこと。その時代ごとに違った時代背景があるのに、それを想像しえない現代人が、その時代の資料だけに基づいて歴史を理解し、歴史観を作る、なんて本当に出来るのか。

だから、歴史観に説得力を持たせるのは物凄く難しいんだね。


でも、だからこそ、歴史学というのは、その時代に何が起こったのかについて、より深い理解と、説得力のある説明を追い求めるロマンがあるのかもしれない。

俺が大学4年の時に唯一取った歴史学の教授が言っていたことを思い出す。

''We never know about history, but history is all about understanding it.''

完全に歴史を知ることは出来ないけれど、それを理解する事こそが歴史学だ、と。

うーん、なるほど。


※田母神さんの話に少し戻る。彼は、近代日本の歴史観を書いているので、資料に基づいた論証が比較的しやすかったはず。それでも彼は著書の中でその情報源をロクに提示していないので論外。


ここでふと、政治科学と歴史学は非常に仲が悪い、ということを思い出した。


つづく。


Imayu

それでも歴史大好き!
『政治科学部のシラバス(授業要綱)を書け』

-クラスで学んだ事を踏まえて
-Liberal Arts教育の問題点も考慮して

どんな宿題さ。

頭がパンクする。
お久しぶりのImayuです。
ポーランド研修落ちた。苦笑

もう手帳にも行く予定でスケジュールを書き込み、
周りの人にもポーランド行くんだ~と公言してたのに落ちた。

なので5月の卒業式には無事参加します。笑
なんで落ちたのかは解りません。

電話でインタビューがあってその後に不合格通知が来た。

ドイツ行った事あるよ、って言ったのがまずかったのか、
俺の英語が鼻についたのか、
昔書いたように、俺のドライな政治的視点にムッと来たのか、
ちょっと態度がでかかったのか、
ちゃんと言いたい事が伝わってなかったのか、

もう原因が何なのかわかりません。

日本の面接だったらちゃんと反省して原因が抽出できたんだけど、
今回は言葉も違えば文化も違うし旅の理由もまた特殊だという事で、
考えられる因子が多すぎてどうして落ちたのかわかりません。

しばらくショックだったんだけど、
先週の春休み(カナダでは3月に1週間の休みがある: March Break)で
隣の州のHalifaxという港町に行き、
美味しい日本食を食べてきたのでもう立ち直った。
まあ東欧くらい自分で行けば良いんだこの年に。クソ。



いつも通り充実した生活を送っていますが、
クラスで気付いた事を1つ書き留めておこうかな、と。



IMAYU流民主主義一刀両断!!!!!



      



こんな書き方すると難しい印象を受けると思うけど、
そんな複雑な話じゃないので、頭の体操になると思って読んでください。

今日の人権学のクラスでImayuが目の当たりにした民主主義の矛盾と危険性について。


「民主主義は、みんなの意見を現実世界に影響させる機会を与えるけど、実際は、その抽象的な概念が人を現実と理想の間に挟みこんで、実践的行動から遠ざけるんじゃないか」


って事。
ちょっとわかりづらいよね。
クラスの状況からだんだんと入っていくと序々にイメージが沸いてきます。

具体的に言うと、人権学のクラスで、
「どうして大虐殺は無くならないか」
(ホロコースト、ユーゴスラビア、ルワンダ、スーダンとかね)
「なぜ虐殺が今この瞬間に起こってるのに、
みな(国も個人も含め)無視するのか」

という議論になった時に、ある2人の女の子の間でこんな議論があった。


女の子A: たとえ国民が「虐殺を止めたい」、と考えていても、
政治家が考えることは違うし、現実的に考えて
民主主義で国民の意思が政治に反映されるとは思えない。
だから、国民が熱くなってもしょうがない。
民主主義が理想の政治の形だというのは認める。
でも、民主主義も不完全なモノ。それが現実。


それに対して


女の子B: でも、その政治家を実際に選んで議会に送り込むのは、
民主主義の社会にいる以上その人を選挙で選んだ国民なんだから、
国民に最終的な責任がある。
虐殺に対して何の行動も喚起できない政治家を
選んでるのは自分も含めた国民自身。
だから、そういう政治家を無くして
世の中を良くする行動を自分達がとるべきだ。
それが民主主義に生きる自分達のすべきこと。


観念的で頭がポーッとしてきそうな話だけど、
最後は2人ともかなり感情的になってきて、
教授もあまりいい仲介が出来なくて(いつも通り)、
そのまま議論は不完全燃焼で終わった。
お互いなんの妥協点も見つけられないまま、
気持ちにモヤモヤだけが残った。

リベラルアーツの大学で勉強して、
答えの無い問題に答えを見つける訓練をしている限り
こんなモヤモヤは付き物なんだけど、
さて、この議論を「傍聴」していた俺の頭には1つに疑問が浮かんだ。


「この2人の議論、今の民主主義の基本的な問題を象徴してないか?」


噛み砕いていくと、女の子Aの主張はいわゆる「現実主義」。
どんなに理想を抱いても、現実的に理想通りに行かないんだから、
実際に国民レベルから世の中を変えようとしても無理。
現実をそこにあるもの、変えられないものと想定して考える。
(悲観主義とも言える)

一方で、女の子Bの主張は「理想主義」。
現実的には問題が山積みかもしれないけど、
それを変えていく為に、自分達が行動しなきゃいけないんじゃないのか。
それこそが民主主義の意義じゃないのか。
現実を変えられるものと想定して
自分達の理想を、達成すべき、目指すべきものとして、
民主主義の中での行動指針を立てる。
(楽観主義とも言える)

お互いの主張が成り立つための前提・想定が違うんだから、
妥協点も共通点も見つかるわけが無い。そんな事はわかってる。

しかもこの2つの極端な主張、
人を理想を語るだけの楽観主義者か、
現実を憂う悲観主義者のどちらかにしかできず、
結局なんの実践的行動も促せない。



こういう構図が出来上がる。



A子=現実主義(悲観主義)

・国民の意見と国家の政治には距離があるので、実際に政策には反映されない

・だから国民がいくら騒いでも無駄

・民主主義自体は存在するシステムの中で(とりあえず)一番良い(なぜなのかはB子の主張では判りかねる)


      ↓      ↑

B子=理想主義(楽観主義)

・政治の責任は自分達にあるから、自分達がそれを変える行動を民主主義社会で起こすべき

・民主主義社会での行動って?
-正しい代表者を選挙で選ぶ
-悪い政治家がいたら非難して辞めさせる etc.

・そうやって選ばれた政治家は本当の意味で良心ある政治を行う




さて、ここで気付く事がある。



お互い全く合意しないように見えるAとBだけど、
「民主主義サイコー!!!」と言う点では一緒。

民主主義という畑の上に、
「現実主義」と「理想主義」の芽が出ている事になる。

現実主義の芽は、
「民主主義っていう土にも
限界があるんだからもうこれ以上育てないよ」と言う。

理想主義の芽は、
「いーや、まだまだ僕達は大きく育つべきなんだ」と言う。

「民主主義」という現実的にも理想的にも、
人それぞれ好き勝手に解釈ができるような抽象的観念にとらわれ過ぎて、
「じゃあ実際に何をすればいいの?」という一番大事な問題を無視したまま、
お互いが「民主主義だから俺達はこうだ!」と、
合意できる確立0%の非生産的議論に終始する。

現実主義は何も出来ないと言う。
理想主義は何かすべき、というばかりで何が出来るのか具体策を出さない。
(民主主義で国政を変えるなんて、「選挙に行く」とか「デモを起こす」くらいしかない。)


民主主義は、人をその土台に固定するための「土」ではなくて、
人にすべきことを考える環境を与える「空気」。





ではなくて、





ということ。


自分の行動範囲が「民主主義的政治の中」としか
思っていないA子とB子は、その土から出ることが出来ずに、
自分が頑張れば(空気の中を動き回れば)いくらでも
世界を変えられる機会が山ほどあることに気付かない。

実際にこの2人、あと1ヶ月半位で卒業なのに
その後何をするのか全く決まってないわけで。

そして結局、
人の良心の無さ、だとか、
政治の汚さ、だとかに責任を転嫁して
何の実践的解決策も見出そうとしない。

更にひどくなると、
実践的に行動を起こそうとする人間を
「ドライだ。結局力と金なんでしょ」と
上から目線で切り捨てる。

抽象的な事を考える人間は
庶民にわかりえない高みにいる、
なんて思ってるんだろうか。

大きな間違い。

実際に行動を起こす人間には
強い観念・信念に裏打ちされた意思がある。

国連、
IGOs (Intergovernmental Organizations)、
MInistries・Diplomats、
NGOs (Nongovernmental Organizations)、
NPOs (Nonprofit Organizations)
MCs (Multinational Corporations)、
Interest Groups etc. etc. etc. etc. etc.・・・

政治家選出のプロセス以外にも
世界に貢献しようと頑張ってる人はいくらでもいる。


「民主主義」って言葉と概念が
グローバルスタンダードになりつつある今、
その言葉の真意を深く考えずに
その観念的トラップにはまってしまう。


そうなってしまっては、
何の実践的な行動も喚起できない。




そんな事をA子とB子の議論の中に感じました。



なんでImayuは授業でこの意見を言わなかったの?

気が付いたらね、人権学のクラス自体であまり意見を言わなくなっていた。
というのも、いつの間にかこのクラス、
「西欧の人権理想主義の観点から、
それにそぐわない世界の現実に文句を付けるクラス」
になっていたから。

教授が牧師で、人権を微塵も疑わない人間だという事もあり、
そしていつの間にか生徒もそれに洗脳されつつある気がある。
そんな理想観念主義のクラスで批判的意見をいう機会もなかなかないよねぇ。
たとえ言ったとしても「アジア人は違う視点を持ってるな~」で終わりだ。

''What do we all universally have? Our dignity!!!''
俺はこんな事言えないよ。笑

更に理想主義のB子とは、この前俺がブチ切れたサルでした。だから尚更。



※現実主義は観念主義じゃないでしょ?

確かに。政治学的には現実主義は観念主義ではない。
理想主義が観念主義。
ただ、今回の議論はA子とB子の言った内容に沿って書いたので、
その概念に完全に当てはまるわけじゃない。
今回は、「観念主義」=「実際に行動を喚起しない考え方」
と暗に定義して書きました。
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Imayu
年齢:
38
性別:
男性
誕生日:
1985/05/13
趣味:
ドラム・筋トレ・読書・旅行・絵描き・マグカップ収集 etc...
自己紹介:
英語偏差値30の高校時代を経て、カナダ東海岸、St.Thomas Universityに留学。政治科学と人権学を専攻。専門はアフリカ人権問題とドイツ政党政治。2009年4月付けで、某財閥系総合商社へ入社。

先進国に生を受けたからには世界を相手に何か出来る事が、すべき事があるんじゃないか。「『日本人として』、世界という舞台で闘い、途上国の人々の未来を創る」という夢に向かって邁進中。ビジネスを通した途上国貢献の道を模索中。

''Watch your thoughts; they become words.
Watch your words: they become actions.
Watch your actions: they become habits.
Watch your habits; they become character.

Watch your character; for it becomes your destiny.''

※メール→imayu_canada[at]yahoo.co.jp(ブログ用)
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