英語偏差値30からカナダ東海岸St.Thomas Universityに留学。卒業後2009年4月、某財閥系総合商社へ入社。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
3泊4日で仙台に震災ボランティアにやって来た初日、住宅地の泥掃除をしながら、どこか津波に対する現実感が無いままその日の作業を終え、沿岸部にやってきた。住宅地は流されコンクリートの基礎を残した平野に変わり、堤防を挟んだ向こう側には穏やかな太平洋が広がっている。不自然にねじ曲げられた松の木や深く抉られた砂、静かな海と何も無い平野を目にする中、次第に津波の恐ろしさや起こった事の悲惨さを痛感し始める。その時海辺で、ひとりの漁師風の男性に出会った。
「すみません。大勢で騒がしくしてしまって。」
私達ボランティア団のリーダーから一言。男性は、その風貌から、すぐに現地の人だと分かった。
「津波は三回来たんだ。」
それ以上こちらから話し掛けるでもなく、その漁師風の男性は滔々と話し始めた。
地震が起こった直後、海には大勢の人がつめかけていた。津波が来るか来ないか見に来たのだと言う。2010年にチリ地震が起きた際に、津波警報があり住民が避難した経験があるが、実際は津波は来なかった。その経緯もあって、今回の地震でも大きな津波は来ないだろう、と思い人々は集まったのだと。津波警報の発令も遅れた。
一回目の津波は50センチメートル。大きな波が立ったと分かる程度のもの。なんだ、今回も津波は来なそうだ。そこにいた人はそう思ったのだろう。そこから三回目の津波が到達する迄30分も掛からなかった。三回目の津波は、10メートルを超えた。
海際にいた人を含め、多くの人がこの津波の犠牲になった。漁師風の男性は学校の4階に避難していたが、3階迄は浸水しそれより下に避難していた人は犠牲になった。津波が完全に引く迄5、6時間はあったという。その間電柱や木にずっとしがみついていた人もいた。
波が引いた後、男性は連絡が取れない息子の捜索を始めた。海岸や町中あちこちに人が倒れており、暗い中懐中電灯を片手にひとりひとり顔を持ち上げて息子かどうかを確認した。見付からなかった。その後、息子の遺体は安置所で見付かった。
仙台港では一部漁業が再開したが、食べる気がしない。津波で流された人の肉を食べて魚が大きくなっていると思うと、食べる気がしない。
漁師風の男性は無表情に、滔々と、津波が襲って来た日に何があったかを語ってくれた。一切表情を変えずに、ただ淡々と。自分達には想像も出来ない状況を経験して、男性としてはただ淡々と話す以外に表現方法が無かったのだと思う。